「嫌われる勇気」が想像を絶するゴミ著だった【実践不可能】

改めてベストセラーである「嫌われる勇気」を読んだのですが、正直「これ、しっかり批判して認識正しておかないとダメなヤツでしょ…」と感じたので、老婆心ながら書き記しておこうかと思いました。

(ネット上のレビューをちらほら読んだのですが「あれ、誰も理解してなくね?」とガッカリしたので…)

個人的には「何当たり前のこと言ってんの?それが出来ないから、みんな現実で苦しんでんだよ」以上の感想しか湧きません。

「言いたいことは痛いほどわかる。でもそれ実践無理でしょ?」

「嫌われる勇気」をちゃんと読まば、この大前提を踏まえた上でそれでも実践しなければならない類の書籍だと、まともな読解力があればわかるはずです。

しかし、本著を考えなしに読解してしまうと、筆者のMBTI性格診断結果である「INTJ」と相性が最悪とされる「ESFP」…いわゆる「パリピ」的な人生観に集約されてしまう結果にしかなりません。

また、本著で聞き手となる「青年=徹底したリアリスト」が私の立場とも重なるのですが、読んでて「お前のツッコみクソすぎない?」とも感じたのも、今回書こうと思った理由でもあります。

(語り合い・議論形式で文章展開する場合、聞き手の知能を著しく下げるのは、古典的な方法として知られている。「ボケとツッコみ」はボケ側が頭が悪くなければ成り立たない)

ちなみに私は「ポジティブ系自己啓発アンチ」ですので、その点については以下の記事で詳しく解説しております。ただのアドラー心理学的転用の論点すり替えなので。

関連:仕事・ビジネスで役に立つ「自己啓発」についての必要性を解説!オススメの自己啓発本とその読み方とは?

「嫌われる勇気」に関しても「用法・用量・用途を正しく理解して、適切に扱いましょう」と多くの読者に気づいて頂くためにも、あえて批判的・懐疑的な立場で書かせていただきます。

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「嫌われる勇気」=嫌われてもいい免罪符ではない

本著を紹介する上で、一番知っておきたいことは「”嫌われる勇気”=嫌われてもいい免罪符ではない」ということです。

これは作中でもしっかりと書かれております。

青年:……先生は、わたしに「他者から嫌われろ」と?
哲人: 嫌われることを怖れるな、といっているのです。
青年:しかしそれは……。
哲人:わざわざ嫌われるような生き方をしろとか、悪行を働けといっているのではありません。そこは誤解しないでください。
哲人:嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるよう に生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由なの です。

…が、どうにもここ最近は「”嫌われる勇気”を盾に人を敵に回すことばかり言っていないか?」と感じる人が多いように感じるのです。

また、視点を逆にすると「”嫌われる勇気”を持って行動している人を、ひとつの言動だけで敵として判断していないか?」とも言い換えられます。

これは私自身、本書を読む前に「そういう本でしょ?」と思い込んでナメていたので、自戒の意味でも書いております。

商業誌なのでキャッチーかつセンセーショナルなタイトルとして「嫌われる勇気」を選んだのでしょうが、内容に誤解を招く結果となっているとしか感じません。

「秋元康がAKB48のメンバーにオススメした書籍」という逸話自体、この書籍のタイトルを独り歩きさせてしまっている結果になっているようにも感じます。

(本当に誰からも嫌われる人間が、芸能界で長いこと生き残れるわけないんだよなあ…)

本著で書かれている「横の関係=主義・主張を通し、しっかり相互理解を図るべき」という主張に関しては、私もすこぶる共感しております。

アドラー心理学から見た答えはシンプルです。まずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくこと。そこからスタートしましょう。

たしかに、年長者を敬うことは大切でしょう。会社組織であれば、職責の違い は当然あります。誰とでも友達付き合いをしなさい、親友のように振る舞いなさい、といっているのではありません。そうではなく、意識の上で対等である こと、そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。

これに関しては「和をもって尊しとなす」を題材に、当ブログでも以下の記事などを書いております。

「和を以って貴しとなす」を勘違いしている現代人が多いので小生が本当の意味を教えてやるぞよ

…が、現代人が実践できているかどうかで問われたら、あまりに否定材料になる事例ばかりが世間を賑わせており、とてもそうとは思えません。

ですので、覚えておきたいことは「嫌われる勇気とは、決して敵を作って孤立無援になる生き方を推奨しているワケではない」ということです。

むしろ、最終的なアドラー心理学の到達点は、まったくの真逆です。

結論だけを答えよというのなら、「共同体感覚」です。

これはアドラー心理学の鍵概念であり、その評価についてもっとも議論の分かれるところでもあります。

他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、 共同体感覚といいます。

アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけで なく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、とし ています。

(これ、概念的には「アカシックレコード」に近く、アドラーの最終的な解答なのでは…というのが私の見解です。哲学・宗教を研究していると「なるほど、そう来たか」と理解できるアドラー心理学の核の概念ではあります)

この「アドラーが目指した、最終的なゴール=共同体感覚」を理解せずに読んで実践すると、文字通り「敵を作るだけの結果」にしかなりません。

(最終的には「すべてが仲間になる」というアドラー心理学のゴールとも言えるのですが、そのためには最初は敵対する・嫌われるという必要がある…という順序ありきで考えれば納得できるのですが、そのあたりの説明がどうも本著は不親切です)

本著の狙いとしては「アドラー心理学入門」的な要素があったのでしょうが、どうにも商業主義に迎合し過ぎてしまった結果、誤解を招くどころか、都合よく「嫌われる勇気」というキャッチフレーズやアドラー心理学の悪い側面だけが独り歩きしてしまっているように感じます。

これについては福沢諭吉の「学問のすすめ」時代から続く「炎上ミスリード文で客引き、本旨を理解できる人のみを深遠なる知識と教養の世界にご招待」という意図ではあるのだと思われます。

そう考えると、本書自体がガチの教養人・学者たちから「嫌われる勇気」を実践している点では、非常に説得力のある本だと感じます。

過去を否定してしまっていいのか?

本著を読んでて全面的に感じたのが「ずいぶん、過去を軽く扱っているなあ…」という疑問。

本著の締めとしても「いま、ここ」と結論づけられており、やや「ん…?」とすこぶる読了感が悪いというか、なんとも締まらない印象でした。

元々、アドラー心理学の目的論自体が、フロイトの過去=原因論に対するアンチテーゼ的な側面もあるので、極端に過去を否定してしまう方針に振り切っているのだとは思います。

ですので、究極的に言えば「嫌われる勇気」は過去を否定する著書です。

これに関しては、私が読んでて明確に「それは違うだろ…」と批判したかった部分です。

残念ながら、人は生きる限り過去のしがらみから抜け出せません。

当サイトの営利上のメインテーマである「キャリア」「転職」などは、もろに「過去=経歴」が左右する要素であり、不可逆的にどうしようもできません。

また私自身、大の歴史好きなこともあって「本当にそれでいいのだろうか?」と、すべての過去を否定してしまいかねない本著の内容に関しては懐疑的です。

これは「過去の現象の意味付け=トラウマをやらない言い訳にする」から抜け出すための意図で書かれているのだとは思います。

青年:それでも現実問題として、高い学歴を持っていたほうが社会的な成功を手に入れやすいのですよ!先生だってそれくらいの世間智はお持ちでしょうに。

哲人:問題はそうした現実にどう立ち向かうかなのです。もし「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考えているとすれば、それは「成功できない」のではなく、「成功したくない」のだと考えばければなりません。

哲人:単純に一歩前に踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。いま享受している楽しみ――たとえば遊びや趣味の時間――を犠牲にしてまで、変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える”勇気”を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、いまのままでいたほうが楽なのです。

余談ですが、これは進撃の巨人の初期のコンセプトと合致します。

全編最後まで読めばわかりますが、決して「過去を全て捨て去ろう」と書いているわけではありませんし、変わらないことを否定しているわけでもありません。むしろ、全体で言えば「少しずつ変わっていこう」「今できることからやっていこう」というメッセージに集約されます(後述)。

…が、どうにもそのあたりの説明が不足しているせいか、皮肉にも「本著の文章を意味付け=自分が無法な行為を行ってもいい言い訳」に都合よく転換している読者もいて、これはまったく本来の意図が伝わっておらず、残念に感じます。

極端なたとえを出しましょう。

愛する人を失くして過去にとらわれている人……たとえば、子供を震災で失くしてしまった親御さんに「過去のことは忘れて今を生きましょう!」なんて言う人間、ただの人でなしです。

そのような境遇の方が、過去に縛られ続けて「懺悔」「贖罪」「復讐」に生きることは、誰にも止める権利はないですし、むしろそれが「生きる使命」につながることもあります。(過労死した娘のために、断固として社会と対立して問題提起し続ける親など)

「過去をすべて否定し、未来の行動を正当化する」という動機づけには、以上のような危険性も背中合わせなのです。

過去の記憶であったり、幼少期・青年期に培った価値観は(トラウマ・コンプレックスの負の側面があったとしても)、人格を形成する大きな要素ですので、フロイトの原因論を完全否定してしまうことは「それまでのその人の積み上げてきたもの=人生を全否定する結果」にしかならんのです。

原因論やニヒリズムに関しての反論も軽くなされておりますが、これはやや「著者が批判対象の論理についての理解不足では?」と感じる面があり、やや切れ味が悪いです。(私がニヒリズム寄りなのもありますが…)

哲人:過去がすべてを決定し、過去が変えられないのであれば、今日を生きるわれわれは人生に対してなんら有効な手立てを打てなくなってしまう。その結果、どうなりますか?世界に絶望し、人生をあきらめるようなニヒリズムやペシミズムに行き着くことになるでしょう。トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入り口なのです。

哲人:可能性を考えるのです。もしも人間が変われる存在だとするなら、原因論に基づく価値観などありえず、おのずと目的論に立脚せざるをえないと。

青年:あくまでも、「人は変われる」を前提に考えよ、とおっしゃるのですね?

余談ですが、これはガンダムのニュータイプ論で、よく作中後半で展開されているヤツです。

もちろん「目的論=未来」と「原因論=過去」が構造上相容れない理論同士ですので、それ自体はどうしようもありません。

このあたりは本当に説明が難しくて、著者も細心の注意を払った痕跡が見受けられますが、立場上は「ポジティブ思考・アドラー心理学寄り」にならざるを得ない事情はわかる反面、ネガティブ思考・ニヒリズム側の研究不足にも感じました。

ですのでそういった事情を鑑みずに「嫌われる勇気」の内容を盲信してしまうと、そういった「他人の事情や過去」に無配慮で無頓着で、著しく共感性の低い「お節介」が生まれる結果にしかならないことは、覚えておきたいものです。

ここを見誤ると、冗談抜きで「対人関係ブレイカー」としてしか、機能しない恐れもあります。

このあたりは、私は著者(および編集者)の実力・説明力不足としか思ってません。

以下の著者の記事などからは、著者の苦悩も伺えるので、商業ベースの書籍で学問・知識・教養を題材に扱うことが、いかに難しいかがおわかりいただけるかと思う。

参考リンク:読者をバカにしてはいけない、の意味。|古賀史健|note

「実践には時間がかかる」と明確に書かれている

記事タイトルには「実践不可能」と書いておりますが、実はウソです。(本書のタイトルのミスリードリスペクトでわざとやってます)

本著でもしっかり説明されている通り「アドラー心理学を実践するには時間がかかる」ことを、忘れしまっている方があまりに多く感じます。

著書内では「実践して効果が得られるまでには現年齢の半分の歳月はかかる」と述べております。

アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、いわれています。つまり、40歳から学びはじめたとすれば、プラス20年が必要で60歳までかかる。

この仮説通りに行くと、本著は2013年発行ですので、2018年現在では15歳の人間でなければ効果は出ていないということになります。

また、丁寧に実践手段と目標もまとめられております。

行動面の目標

  1. 自立すること
  2. 社会と調和して暮らせること

この行動を支える心理面の目標

  1. わたしには能力がある、という意識
  2. 人々はわたしの仲間である、という意識

これに関して、具体的な方法や課題を掘り下げると、到底商業書籍一冊でまとまるわけがありません。

それだけ、常識と思い込みを打ち砕いて実践するのは難しいということです。

逆に言えば、この本がベストセラーとなって誤解されてしまっているのは、いかに現代人が「自己啓発に、即時的な効果しか求めていない」かの、証左であるようにも感じます。

自己啓発(および、その背景にある哲学・心理学)が注目されるようになったのは喜ばしいことですが、どうにも「目先の利益」しか考えていない人に恣意的に歪められまくっているところは、実に嘆かわしいところです。

たとえば、堀江貴文氏が自身の著書「すべての教育は洗脳である」にて「嫌われる勇気が刊行されてベストセラーなのに、実行する人間が出てこない…」と嘆いていました。

しかし、本当に「嫌われる勇気」を理解して実践して変化した人間は、現段階で出てくるわけがないのです。

影響力もあって頭も良く実績のある堀江貴文氏ですら、この事実に気づけていないのですから、他の読者が気づけないのも無理ないでしょう。(ミスリード・ポジショントークの類だとは思いますが…)

「常識アンチテーゼ」という目的論的に読む必要あり

本著「嫌われる勇気」に関しては「フロイト的な原因論とニヒリズムに対するアンチテーゼ」としては発見はありましたし、アドラー心理学の目的論も「ああ、そういうことね」と概念自体を掴むのには参考になりました。

アドラー心理学、ならびに「嫌われる勇気」が表面上説明しているものは「常識アンチテーゼ」です。

アドラー心理学には、常識へのアンチテーゼという側面があります。原因論を 否定し、トラウマを否定し、目的論を採ること。

その真価がわかるのは、アンチテーゼの対象となる「フロイト的な原因論」「ニヒリズム」を理解してこそです。

それを踏まえると「アドラーが人間の何を打破し、どういう方向性に人を導きたかったのか?」は、至ってシンプルです。

最終的に「嫌われていくうちに、最終的には和解=共同体感覚に行き着く必要がある」と考えれば、わかりやすいでしょう。

ですので、共同体感覚という頭お花畑な理想論的概念が最終目標でありながら、最初の手段として「嫌われる勇気」という真逆と思われる手段が推奨されるのです。

(この概念と順序を理解すると、なぜ教育課程で理想論ばかり教えられるかもすべて説明がつくので、人文学がすべてつながります)

超絶わかりやすく言えば「拳と拳で殴り合わなければわからないことがある」「強敵と書いて”トモ”と呼ぶ」という、割と少年ジャンプ的な世界観でもあります。

…が、普段は活字を読まない層や、心理学・哲学に大して体系的な理解がない方が読むと「これ、確実に誤解されるよね?」という感想で、ちょっと残念に感じました。

実際、ネット上のアウトプット結果(レビュー、実践談)を見ても「アドラー心理学の都合のいい部分だけ切り抜いて利用していないか…?」と感じる部分も多く、ちょっと残念に感じます。

商業用書籍でなおかつベストセラーである以上、大半にそういう読まれ方をするのは致し方ないのですが、本著自体よりも「読んでる人間や、実践している人間の理解力が残念だな…」と実感させられる一冊でした。

最後に、本著の中でもっとも読者に覚えておいて欲しい引用文で、締めくくります。

なぜそう答えを急ぐのです?答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきものです。他者から与えられた答えはしょせん対症療法にすぎず、なんの価値もありません。

参考書籍

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