「ないものねだり」はもうやめにしよう→自分に欠けたものを知ることもまた自己分析だね♪


ブログ記事量産マシーンになるのに飽きたので、余興でVtuberとかいう高度な遊びに興じているスシテンコちゃんの中の人もとい、スコシテン編集長です。

正直、ブログとか「原則通りにやっておけば誰でも稼げる」という感じで、なーんの思い入れも熱意もないのですが、仕事で関わる方に対する義理立てだけが原動力であったりします。

まあ、私個人のどうでもいい事情はさておき。

私が生まれつき抱えている「ワケのわからないイライラ」の正体が、ようやく言語化できそうになってきたので、とりあえず書いておくことにしました。

結論から言っておきますと、私のイライラの正体は、おそらく「ないものねだり」です。

欠点を見抜くINTJとしては、自分に欠けていて他人にあるものを把握する能力がずば抜けているみたいで、どうにもそれが自分の欠落を際立たせ、自分を完璧に近づけさせる機能が働くせいで、感情としてバグを起こすみたいでした。

他人をうらやむ=得体の知れない怒り

正直に告白すると、自分にないものを持っている人を見ると無性に腹が立ちますし、しかもそいつが私より能力も実力も明らかに下であるにも関わらず、私よりも結果を出しているのを見ると「なんで、あんな実力もない薄っぺらな奴が評価されてんの?」と苛立ちます。

まあ、世の中は実力や能力が正統評価されること自体の方が稀なのですが、ムカつくものはムカつくからしょうがない。

で、それだけならまだいいんです。

それだけなら単に「嫉妬心」「劣等感」程度の言葉で片付く話ですから。

問題は「大多数の人間に評価される要素が、自分自身には欠落している」という致命的なところにあります。

それは「愛嬌」であったり「好感度」であったり「信用(toC向け)」であったり「ブランド力=知名度」であったりします。

ステータスとか自分自身の表面上の評価とか、心底どーでもいいというか、くだらないと思っている私にはごっそり抜け落ちている要素です。

ですが、世の中ではどうにも「感じのいい笑顔の素敵な偽善者が言った薄っぺらな言葉」の方が、大多数の人には響くみたいです。

たとえば、私は落ち込んでいる人間に「きっといいことあるさ、頑張ろう!」なんて励ましの言葉は言えません。

なぜなら、自分自身が「どこぞの誰かに根拠のないエールを送られたり、たまたま成功して浮かれてるだけのクソ野郎のポジティブな言葉に勇気づけられることなんかない」からです。

つまり、大多数の人が感動したり、心を動かされるであろう言葉に、まったく共感できないのです。

また、自分自身を成功者みたいに演出して「私みたいになりたければこれをしろ!」という演出もできません。

なぜなら、そんなことしたって、他人が自分にはなれないことはわかりきっているからです。

ですので、私は他人に共感を与えることも出来ませんし、多分、誰かに感動や勇気を与えることも出来ません。

ましてや、成功者面してエラソーに「こうすればいいよ」とアドバイスすることなどはもってのほかです。

私はあくまで選択肢や考え方を提示するまでが仕事の範囲で、

「その先の”決定”は自分自身の責任と覚悟を以って決めろや」

…というのが信条ですので、ヒントやアイデアは示せても、答えは出せません。

物書きや情報発信者が「それ以上の業務範囲も請け負える」と思ってるのであれば、それは傲慢です。

「自分の発言や書いた文章が、どこかの誰かを地獄に落としかねない」という覚悟もねえのに、文章書いてんじゃねーぞ、偽善者どもが…って感じ。

私は「中身のない空っぽな人間」

では、なぜ私が「ないものねだり」をしてしまうかと言うと、それは私自身が「中身のない空っぽな人間」だからです。

私には立派な肩書きも、社会的ステータスも、充実した人間関係も、他人から認められる能力も、何もありません。

私は、中身のない、空っぽなガランドウの人間です。

ですので、他人の模倣や真似、あるいは成功者や先人の思考や方法を再現して、パクれる部分だけをパクるしかないわけです。

自分自身の手で一から築き上げたものはありませんし、あったとしても実感がないです。

ですので、私は「ブログ運営どころか、ビジネスなんて原則通りにやってれば誰でも稼げるけど?」と言っているわけです。

特別な才能も能力も、大した努力も実績もコネも必要とされません。

人間性がクソで、社会的ステータスも終わってても、誰でも稼げます。

その事実がまた、私をイライラさせるんです。

匿名ブログで成果が出れば出るほど、
自分の拒否した”ないもの”がなくてもいいことが肯定され、
大して自分が欲しくないものばかりが得られる

…という、自分が望んでいない方向に向かっていくからです。

私の想いとか感情とか関係なく、仕事で金が絡む以上は、なるようにしかならず、それがたとえ不本意であったとしても「自分しか出来る人間がいないから」だとかいうちっぽけな理由で、仕事は増えます。

(なんで、ただの元ニート・ネットゴロ風情が、大卒ホワイトカラーがやってそうなデータ分析から戦略設計、広告代理業までやらないといけないんでしょうかねぇ?全ッ然、意味がわからないんですけどぉ?)

正直言って「ブログを書くのが好き!」だとか「やりたいことを仕事に!」だとか意気込んでいる人間よりも、自分の方が成果を出しているのであれば、まったく意味がわかりません。

なーんか、世間の認識では「好きなことを仕事に!」だとか「やりたいことを仕事に!」した方が幸せで成果も出せるってことになってませんでしたっけ?

私としても、そういう熱意を持ったポジティブな人間が成功して、やる気なくめんどくさそうに仕事してる人間が成功しない、ハッピーな世界になって欲しいですよ。

私は、文章を書くことにも、情報発信業にも、マーケティングの仕事にも「大して能力のない奴がエラソーに調子こいててうざいから、自分の実力がどれだけ通用するか試してみたかっただけ」以上の動機はありません。

「やりがい」だとか「愛する家族のため」だとか「仲間のため」だとか「社会のため」だとか「借金を返すため」だとか「好きなことをして生きるため」だとか、立派な大義も動機もありません。

あるのは、ただ「自分より能力のない人間が成功してるのがムカついたから」みたいな、稚拙な動機しかないんです。

まあ、それで成果が出ている以上は「才能も能力もあった」ってことなんじゃないですかね?まったく意味わかんないですけど。

ひとつだけ言えることは「中身のない空っぽな人間だからこそ、同じく中身のない空っぽな人間には刺さる言葉が紡ぎだせる」ということでしょうか。

…いずれにせよ、誰もかれもが何か大きなものを背負っているわけでもなく、熱くなれることがあるわけでもないということです。

そして、自分自身の能力や才能を自覚できないどころか、むしろ「自分自身で認めたくない類の忌み嫌うレベルの呪いが”才能”」ということすらあるみたいです。

であれば、私は当人が望まないとしても「お前には才能も能力も実力もあるから、四の五の言わずに、やれ」と、能力のある人間を転職という名の地獄に突き落とします。

欲しいものが何もないからマーケティングに適性があるとかいうクソみたいな皮肉

マーケティングの仕事をする中で気づいたことは、どうやら私には「欲しいもの」がないみたいです。

「ないものねだり」はするクセして「欲しいもの」はないと来たから、これは本当に困りものですよ。

欲しいものがないからお金に対する執着心もなく、お金が欲しいわけでもないから仕事に目標も持てない、目標もないから生きる気力も沸かない…。

私はそういう人間みたいです。

ただ、あるとしたら「自分にないものを持っている人を理解できれば、ちょっとは何かを持っている人に近づけるのではないか?」という興味・関心ぐらいです。

幸い、口座に勝手に金が貯まってたので、とりあえず「お金ってこうやって使えばいいの?」と心ばかりながら浪費もしてみました。(税務処理めんどくさくなるだけなんですが…)

「こんなもの買う奴、バカじゃないの?」
「これに金を使う奴の気持ちがわからない」

…という状況を再現してみるも、正直な感想としては「こんなもんの何が楽しいの?」って感じでしたよ。

(値札見ずに服買ったり、美味しいものを食べたり、ソシャゲにアホみたいに廃課金したり…など。…どこぞの秒速で億稼ぐ男みたいに数億溶かせば天国の階段でも見えるんでしょうかね?)

で、理解できない・共感できないからこそ、理解するために仮説を立てて「こういう気持ちではないか?」と考えるのですが、やっぱり感覚としては実感できないみたいです。

で、その仮説が当たっていればマーケティングの仕事としては機能するみたいなので、結果として「適性がある」ということになっているみたいです。

ここで気づくのが「消費者心理を理解して財布を開かせることをアレコレ考えるのは好きだけど、自分が財布を開くことにはまったく興味が持てない」という、とんでもない欠落感なんです。

マーケティングなんざ、しょせんは複雑な理論で設計されているだけのものですので、分析すればある程度は分解できます。

たとえば「仕入単価」「仲介料」「税率」「サービス」「相場」で構成される「価値」から、品揃えから陳列まで、すべては何かしらの法則に基づいて決められているものであり、それを消費者が購入するのも、すべて「誰かの計算のうち」なのです。

つまり「誰かの手のひらの中で踊っているだけ」でしかないのです。

要は「お金で買えるものには本質的な価値なんてまるでないと理解しきったからこそ、マーケティングの仕事に適性がある状態になった」だけです。

…このように、お金の絡む物事はすべて何かしらのルールや思惑が絡んでいるだけであり、それを紐解いて理解してしまえば「結局、誰かの決めたルールや法則の中で動いてるだけじゃん…くっだらねえ」としか思わなくなります。

(その「誰かの手のひらの中で踊っているだけ」の状況で楽しめる人間が多い以上は、仕事としては機能するらしいんですけど)

「自分がない」から自己分析で捏造してしまえばいいという結論に至る

上記の私の人間的な欠陥を踏まえますと、どうにも「根本的に自分が抜け落ちている」みたいなので、便宜上「自己分析」とやらで「自分を再定義する」という調整をする必要が出てきました。

つまり、私生活でダラダラしていたり、卑屈で自己肯定感の低い文章を書いている”私”を、仕事上の演出用の”私”とすることが、転職・キャリアで言われるところの「自己分析」と呼ぶわけですね。

やり方としては、やりたくもないクソみたいな仕事を「私の挑戦してみたい仕事です」「私の経験が活きそうな仕事です」と方便並べたてるための、ロジック生成装置を「自己分析」と呼ぶみたいです。

たとえば、私もブログ運営の仕事はTPOをわきまえて「WEBマーケティングの仕事」「ライターの仕事」「自営業」などと表現を変えており、動機も「自分の能力が活かせそうだったから」「在宅でも出来る仕事だと聞いたから」などとそれらしい理屈を並べてますが、本音は「ネトゲに飽きたからただの暇つぶし」「大したことないブロガーでも稼げてるらしいから自分でも楽勝だと思ったから」です。

そうすれば、勝手に相手が「こいつはしっかり考えている人だ」とか「すごい奴だ」とか勘違いしてくれるみたいです。

ちなみに、本音を話すと「こいつは世の中をナメてやがる」「傲慢な奴だ!」とか思われるらしく、私も大概同業者から結構なヘイトを買っている痕跡も見受けられますので、控えた方がいいでしょう。

以上のように、中身のない空っぽな人間は「自己分析」を行うことで、自分を定義して「中身のある人間」と演出することが可能となります。

ないものねだりの逆算で「自分にあって、他人にないもの」を理解すれば、あとはそれは転職・キャリアで言うところの「強み」とやらとして、自己アピールに使えるみたいです。

正直、自分の強みも能力も才能も、まったく実感としては理解できないのですが、他人と比べて「まあ、他の人間よりは自分の方がすごいと思うよ」みたいな要素は「強み」になるらしいので、他人をダシにして自己理解を深めるといいでしょう。

今回のまとめ

  • ないものねだりし続けていると、自分にないものを持っている人を見るとムカつくので注意
  • どうあがいても自分は他人になれない
  • 誰もが「中身が空っぽな人間」である感覚を持っている(多分)
  • 自分が自覚できていない才能や適性の類も結構ある(多分)
  • 「ないものねだり」はするのに「欲しいものはない」という矛盾
  • 「自分がない」ならとりあえず自己分析で「自分を”定義”」しておくと色々楽になる

なんかもう、最近は色々と本当にめんどくさくて「性格悪いけど何か?」「仕方ないじゃん、自分がない人間で、普遍的な感情もないんだからさぁ?」って感じになってきましたが、自分を容認すると色々楽なので、読者の自己分析や考え方の手助けになれば幸いです。

「他人には他人、自分は自分」

そう割り切れば、ほんと気楽になります。