礼儀とマナーが生む、日本の不寛容さと不自由さ。

礼儀だのマナーだのクソ喰らえ!

…と、言ってしまっては、それこそ不寛容すぎるのだが。

私は接客業の経験をしたことがある。

それこそ、わけのわからん接客マナーだのを徹底させられた。

わけがわからないが、守っておくに越したことはない。

礼儀だのマナーは、もはや、その程度の価値しかないのだ。

礼儀とマナーは不寛容さと不自由さを意味する

コンビニの愛想の良い店員が、お札の向きを揃えずに渡してきた。

これは、私が徹底して「お札の向きを揃えて返す」というルールを、接客業時代に守ってきたからこそ、気になることだ。

別に、お札の向きとかどーでもいいのだが。

接客業で洗脳されてしまった以上、気になるのだ。

よくいるクレーマーに、同業者、つまり接客業経験者がいる。

そいつらは決まって「オレもこうだったから~」と、自分ルールを押しつけてくるのだ。

自分の教わったルールでしか、世界を見ていない窮屈な人間だ。

仮に、お札の向きを揃えて返してほしければ、わざわざ声を荒らげずとも、

「すみません、できれば、お札の向きを揃えていただければうれしいのですが…」

と、愛想笑いを浮かべながら、余裕を持った対応をすれば、それこそ相手だって嫌な思いはせずにしっかり対応してくれるだろう。

何?言葉遣いがなっていない?

「大変恐縮なのですが、大日本銀行券の向きを揃えてお渡し頂ければ、至福の極みなのですが…」

あー、日本語めんどくせー。

語彙力・表現力の教養ひけらかし合戦なんて、俳句の席でもやっておけよ!てめえらの仕事は俳句を読むことか!なんで、いちいちビジネス文書に意味もわかってない奴の方が多数な、難解な表現入れねえといけねんだよ!お前らは教育委員会か!バカなの?死ぬの?そんなもんは中二病ポエムと変わらねえんだよ!ビジネス文書は文学じゃねえんだよ!お前の仕事は芥川賞とることかよ?

あーすみません。取り乱しちゃった(・ω<)

なんだたっけ?

あーそうそう。

間違いの指摘…というか、相互の認識の齟齬の埋め方。

「お互いが気持ちよくいられる、穏便な問題の解決」というのが、日本には著しく欠けている。

「和を以って貴しとなす」を勘違いしている現代人が多いので小生が本当の意味を教えてやるぞよ』という記事にも書いてあるが、主義・主張は押しつけ合うのではなく、お互いに納得できる調和を目指すべきなのだ。

中国人の図々しさが羨ましく感じる時もある

こと、日本人は中国人の図々しさについては嫌悪感を表す。

私も昔はそうだった。

しかし、今は違う。

彼らにとってはアレが当たり前なのだ。

私は日本人として、窮屈な礼儀やマナーに抑圧され、生きてきた。

礼儀やマナーは、宗教もない日本にとって、形骸化した鎖のようなもので、実に息苦しさを感じさせることもある。

その点、中国人の図々しさは素敵だ。

「郷に入っては郷に従え」などと言うが、そんな価値観など中国人にはない。

しかし、彼らは別に迷惑をかけるためにではなく、買い物や観光旅行など、日本に積極的理由で訪れているのだ。

そういったお客を、内心では迷惑に思いながら「おもてなし」だの言っているのが、矮小な日本人の正体なのだ。

何がおもてなしだ!

おもてだけで、うらでは迷惑がってんじゃねーかクソ野郎!

これぞ、まさに「表なし」である。

表だけでなく、裏の部分でもしっかりもてなす心がなければ、いけないのである。

だから、日本の接客なんてスマイル0円程度の価値に成り下がっていくのだ。

自分ルールがたまたま大多数派だけなのだ

だいたい、信仰や歴史のない礼儀やマナーなど、その程度の価値しかないのだ。

上っ面で「こーしておけば礼儀ですよ」なんて教えるから、どいつもこいつも薄っぺらい体裁にのみこだわって、かえってうさんくさく見えるのだ。

そういった、会社や社会人の「自分ルール」を他人にウイルスのごとく撒き散らかしているのが、日本人の言う「礼儀やマナー」なのだ。

気品も風格もクソもない、ハリボテみてえな礼儀だなぁ!!!!

大企業の経営者が頭下げていても、まるで誠意がないのは、そういう「信仰も信念もない、ただ学んだ通りにやっているビジネスマナー」を、極めただけのしょーもないものだから、薄っぺらいのだ。

そんなくだらない、礼儀やマナーで競い合っているのが、社会人のしょーもないお作法大会なのである。

そして、それを他人に押し付けあって、勝ち誇っているから手に終えない。

礼儀やマナーは、競い合うためにあるのではない。

礼儀やマナーはコミュニケーションツールです

しかしながら、しょーもない礼儀やマナーも、大事なのは認める。

まあ、礼儀やマナーが出来る程度でエラソーに勝ち誇っている奴もいるが、それすなわち、お前の人生の師としての器も測られることを意味する。

たとえば、箸の持ち方の間違いや、言葉遣いにしても、指摘する際にその人の器量というものが現れる。

そこの知れる先輩というのは、何度も言っているとおり「オレもこう教わったからお前もこうしろ!」程度の、自分の無知や指導力の無さをひけらかすハメとなる。

しかし、器量のある人間は違う。

まずは「箸の持ち方とはこういった歴史があり~」「親指下腹部で支えることで~」と、教養の深さを示し、その上でそれとなく、他人に礼儀を指導するのだ。

礼儀やマナーが出来る程度で偉がっているやつは、そこをわかっていない。

お前以外にも、師になるべく人間など、腐るほどいるのだ。

歳が上、人生経験が上、年齢が上、立場が上…そういった、権威だけで自分を誇示し、中身の伴っていない人ほど、礼儀やマナーを形だけでしか守っていないのだ。

だから、他人にも考えなしに押しつけ、場を乱す。

まさに、他人に不寛容、思考が不自由な証拠だ。

礼儀やマナーは言語であり、個人の精神世界です

日本人は礼儀やマナーにうるさい。とくに高齢層ほどうるさい。

しかし、そういうやつらほど、ハリボテのような礼儀やマナーで自分の偉さをひけらかす。

だから、もうオレは「礼儀もマナーもクソ食らえ!」という、ヤンキー状態に陥るしかなくなったわけだ。

それが、オレの中のルールであり、礼儀であり、マナーなわけだ。

まあ、そういったガキのゴタクはさておき。

礼儀やマナーにしても、その人の経験であり、家での教育であったり、あるいは生きた国の歴史であり、そういったものが濃縮されているのだ。

それを良い悪いだの決めつけてかかるから、くだらないいざこざが耐えないのだ。

結局、こういった当たり前のことにも気づけずに、自分の経験やルールを絶対だと決めつけて、他社を認めることのできない器量の小さい日本人だらけだから、死んだ顔におもてなしスマイル貼り付けた人間ばかりになるのだ。