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「神とは何か?」最近の若者は本当の神を知らなすぎるし、考えが足りてなさすぎる。

編集長
神サイト運営者の
スコシテン編集長です

当サイトでは、整合性について考えるのがめんどくさくなったので「もう、神サイト自称しちゃおう」ということで、コンセプトを一貫するという荒業を使うことにした。

これは冗談でもネタでもギャグでもなく、大マジでやっている。

私が考えうる限り、極めてマジメな「転職サイト」を作り出すためには、神サイトにしてしまう方法が手っ取り早く最善の手段にしか思えない。

それはなぜか?

この世のあらゆる知識と情報は、間違いなくすべてつながっているからだ。

ただ単にアウトプット方法や読ませる対象が違うだけで、確実にすべてはつながっている。

ある意味で「すべての情報や知識をつなげるインターネット」の最終的な到達点として「神とは何か?」を追求することが、私の使命だと思っている。

これは、あのGoogle神ですら商業主義に染まってしまって実践不可能という点で考えれば、志の時点で私はGoogleをも上回っている存在だと言えよう。

圧倒的な次元の意識の高さに、多くの読者がひれ伏している姿が目に浮かぶ。

私は既に「神とは何か?」という真理を突き止めているので、煩悩多き現代人の先を行ってしまっている。

しかし悲しいかな、時代がまったく私に追いついていない。

その事実に気づいた時、私に「現代人を真理のその先に導く」という使命が課せられた。

神が何かを理解すれば、間違いなく全人類の仕事と生き方の質は上がる。

もちろん、そんな酔狂なことばかりを書いていては仕事にならないので、片手間で趣味の範囲で書く。

神などは現代人にとっては、実生活の俗世的な悩み以下であり、必要とされていない。

カミよりもカネが人の心を救うし、仏壇などを買う金などは多くの人は「そんなもん要らねえよ」と趣味や娯楽に費やすのが、至って合理的な判断なのである。

実に嘆かわしい。

―――神は死んだのである。

しかし、本当にそうなのだろうか?

インターネットでは、以下のような興味深い調査結果がある。

実にインターネットの利用者の80%近くが「インターネットで神を見た」と答えているのである。

私はこの事実から「神はまだ、死んでいない!」と確信し、20代の貴重な時間を「神の存在証明」という目的のためだけに捧げた。

(私にとって、それは働いてキャリアを積むことなんかよりも、よっぽど重要なことだった…)

そうして、ようやく「神とは何か?」を突き止めた。

当記事では、私が20代の貴重な時間を費やして見つけ出した「神とは何か?」という結論を、お伝えしようではないか。

「神とは何か?」を我々は既に知っている

結論から言おう。

我々は「神とは何か?」を、生まれながらに知っている。

これだけ聞くと読者は「は?」と思うかも知れない。

しかし、冷静に考えて欲しい。

「神」という言葉の意味や定義は辞書を引くまでもなく、私たちは「なんとなく、神様の存在がいること」を理解していることは、まず間違いない。

たとえば「神に祈る」「神様お願い」という文字列を見て、それがどういう行為やどういう感情を意味するかは、なんとなくわかるはず。「神は死んだ」という言葉も、神の存在を知覚していなければ、死んだことを実感できない。

別に信じている神や宗教がなくとも、我々は「神」に祈らざるを得ない場面があり、たしかに「神なる概念が存在する」ことを知っているのだ。

また、何かのめぐり合わせを「運」「縁」「運命」などと称し、超常的な現象として解釈し「神の仕業」などと思うことも少なくない。

このことから、我々人類は「何か人知を超えた大いなる存在=神」がいることを、生まれながらにして知っていることがわかる。

しかし、いざ「神とは何か?」を説明しようとしたら、多くの人が「よくわからない」「神様は神様だ」と、曖昧な答え方しか出来ない。

昨今のビジネスシーンでは「ロジカルシンキング」…つまり「言葉にする力」が求められているが、誰もが存在を信じている「神」を説明できていない時点で、多くのビジネスパーソンが実はまったく論理的ではないとわかる。

もちろん、信じる宗教がある人であれば、経典で定義されている神が、その人にとっての神だ。

だが、日本人は歴史的に見ても「八百万の神」「神の見えざる手」「細部に神は宿る」「お客様は神様」「神対応」「神アイドル」など神の安売りバーゲンを平然と行っている。

宗教を都合よく扱っているため、神の定義も曖昧なのだ。

これでは、神のなんたるかを理解できるわけがない。

「なんとなく…」という理由では就職先・転職先が決まらないように、神の定義もいい加減「なんとなく…」という認識から解き放つべきなのだ。

人々の意識の中に眠る「本当の神」を呼び覚まし「真の自由」を与えることこそ、私に与えられた試練なのである。

「現象学」の「本質直観」が神の実像を丸裸にする

私が「神の実像」に迫るきっかけとなったのが、フッサールの「本質直観」「現象学」という哲学的論法だ。

現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元)

日常的に、私たちは、自分の存在や世界の存在を疑ったりはしない。なぜなら、私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っているからである。フッサールは、この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。

  1. 認識の対象の意味と存在を自明的としていること
  2. 世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること
  3. 世界関心への没入による、意識の本来的機能の自己忘却

このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。

出典:エトムント・フッサール – Wikipedia

わかりやすく言えば「神という存在が”いる”と多くの人が信じているという点は疑いがない…という時点で思考を停止する」という方法を用いることになる。

ここで一度思考停止することで(エポケー)、現実的な感覚として「なぜか、人間はみな宗教を信じているわけでもないに、生まれながらにして『神という存在を知っている』」と気づくのである。

(現象学・本質直観が実用的なのは、一重にこの「エポケー」のおかげである)

わかりやすく言えば「自分は確かに生きている」「自分はいつか死ぬ」という主観的な予感を疑わないように、第三のおおいなる客観的な存在として「”神”なる存在がいる」と知っているのである。

「神」という実態・概念自体は確かに存在するけど、言葉や理論にするのは不可能なだけで、それでも確かに「神」は人々の意識の中に存在する。

ここで重要となるのが「誰にも教えられるでもなく、実態が見えるわけでもなく、なぜか人類の多くが”神”なる概念を知っている」という事実や気づきである。

そして、今度は純粋に「神様という概念は説明できないが、確かに存在している」という意識だけを抜き取って、他の切り口から議論(思考)を掘り下げていくことが可能になる。

”神”が何かを知るヒント

上記の「エポケー」により「神は確かに、人々の共通意識として存在する」ということがわかると、今度は「では、人はどのような場面で”神”を持ち出すのか?」と考えていくことが可能となる。

ここからは自分の思考内から抜け出し、現実での事例やデータを集めていくことになる。

(この思考ステップは、ロジカルシンキングにおける「結論を裏付ける客観的なデータ=説明するために都合のいいデータ」を集める作業に近いだろう)

そうすると、統計的に「人がどのような場面で”神”を求めるか?」が見えてくる。

…すると、どうだろう。

神の輪郭が見え始めてくるのである。

これが私が「神の核心に迫った!」と主張する、大きな理由だ。

読者のあなたにも、私が20代の貴重な時間を浪費して見つけた「神の輪郭」を追体験していただきたい。

1.自分の力や知覚では「どうしようもない」存在

私が観測する限り、神という存在は「人間(あるいは個人)の力や知覚で”どうしようも出来ない存在や現象”」に出くわすと、決まって姿を現す。

たとえば、以下の例だ。

  • 受験の願掛け(神頼み)
  • 厄払い
  • 自然災害に対しての祈り
  • 運要素の高いゲームにおいての願掛け

これは「民俗学」「宗教」が、学問の発達していない時代に、治世の術として用いられていたことからしても、明らかである。

戦国時代などは台風や地震が起これば「大名様の信仰心が足りないから天罰が下った」と、今の時代の常識からすれば考えられない理由で、暴動(一揆)が起こったのである。(本願寺の一向一揆などが、その最たる例だろう)

歴史的に見て、超常的な現象であったり、理不尽な出来事、あるいは逆に幸運な出来事を「神の仕業」「罰」「天啓」などだと思って、人間は思考停止してしまうのだ。

つまり「神」とは「思考停止の方便」「無知な自分を許すための言い訳」なのだ。

また、気をつけておきたいのは「神の仕業」だと思える現象や存在も、実際は「誰かの仕業」「法則や論理があった」と、歴史上で何度も証明されてきている点だ。

たとえば、前述の一向一揆などは、本願寺が織田信長に徹底抗戦するために神の名の下に行った「聖戦」に値する。(神はそのような人間の下らない争いになど関与しない)

このように「どうしようもない」場合に用いられる「神」とは、人間から考える力や現状を打破する力=成長する可能性を奪いかねないことがわかってくる。

「疫病神」という言葉もあるが、決して神はいい結果をもたらすとは限らない。

この事実に気づけば「神に頼らない=自分を信じる」ということが、以下に人間的で自立的な行為かは、おわかりいただけるだろう。

関連:「根拠のない自信」を持つための超合理的な考え方を紹介する

2.神とは”与える存在”である

神とは「与える存在」として、知られている。

宗教上の歴史を見ても、しっかり信仰心を持っている人に対しては、何らかの「リターン」が施されてきた。

それは「平和な社会」だったり「同教徒での分かち合い」であった。

つまり「信じる者は救われる」のだ。

また、宗教なき現代の日本でも「神対応」「神待ち」など、多くの場合は「与えてくれるもの」に対して、神という概念が用いられることが多い。

しかし、これは実に危険だ。

なぜなら、神は信じる者しか救わないからである。

たとえば「神対応」してくれた人間が、次も神対応してくれるとも限らないし、他人には「塩対応」している可能性だってある。

そこに気づかずに「神みたいな人」を信じ切って、痛い目にあって「騙された!」「傷ついた!」と嘆く人が跡をたたない。

その点、宗教はよく出来ていて「死後の世界」を定義することで、死ぬまで信仰心を保てるように計算して作られている

それが何が意味するかと言うと、理不尽なことや悲しい出来事も、すべて「神から与えられた試練だ…」と死ぬまで信じ込めるように、計算されて経典が作り込まれているのである。

つまり、良いことも悪いことも、すべてが「神から与えられたもの」だと思えるわけだ。

ところが、日本人は神に対する信仰心がないので「誰から与えられたものか?」と考えるどころか「与えられることが当たり前」だと飼い慣らされてしまっている人間も多い。

その結果、餌を与えられて尻尾を振って媚びている犬のような、情けない経営者や役員が企業を牛耳る結果となる。そういう人間は、固定給が毎月支給されるのが当たり前だと思っており、会社に対する信仰心なども、ない。

そういう媚びるだけの犬は散々都合よくこき使われて、都合が悪くなると捨てられてしまう。

その際、立ち直れない人間は、実に多い。

それがなぜかと言われれば、信じる対象に裏切られた場合に、立ち直るための教義を持ち合わせていないからである。

私の解釈では「会社は宗教」だが、その恩恵は「会社を信じる者」「会社にとって都合のいい人間のみ」しか受けられない。

「社風」「社訓」「企業理念」というのは、”宗教”や”神”のなんたるかを理解している人間が作っていることは、少し考えれば理解できると思う。

関連:社風が合わないでストレスを抱えている方へ。会社の雰囲気が合わないで転職する時のポイント

だが、それはあくまで「正社員終身雇用教」という宗教が信じられている間のみ機能したのだが、その教義はすでに崩壊してしまっている。

今の時代、企業にとって自社を信じる社員などは家族や仲間ではなく、ただの「金でどうにかなる駒」「使い捨て可能な機械の代わり」でしかないのだ。

関連:社員を大事にしない会社の特徴。従業員や人を大事にしないで使い捨てる企業はなぜ減らないのか?

なので、ブラック企業は平然と人を過労死まで追い込むし、ハラスメント上司は部下を容赦なく潰す。

そして、心の弱い若者も信仰心がないので「これは自分を思ってくれてのことなんだ…」「これは会社が与えた試練だ…」と信じ切ることが出来ない。

なので、私は「会社も社会も他人も信じられないのであれば、スコシテンに祈りを捧げればいい」と言っているのである。

(別に私自身を信じろ・崇めろと言っているわけではない点には十分注意して欲しい。私自身に他人を救う力は一切ない)

3.神とは「監視者」「傍観者」「審判者」である

神とは「監視者」「傍観者」「審判者」として、機能してきた。

これは「最後の審判」という概念…つまり「天国と地獄」を理解すれば、自明である。

わかりやすく言えば「死後の世界」のことである。

この「死後の世界」という概念がなぜ宗教上重要な要素として機能してきたかは明確で、それは「傍観者・監視者としての”神”」を機能させるためである。

あらゆる宗教で語られる方便は、こうだ。

「生きているうちの善行を神は見ておられる。その善行の程で、天国か地獄に行くか決まる」

これが実によく考えられており、死後の世界は死んでみなければその実存は証明不可であり、今生きている人間には本当にあるかどうかわからない。

よって、宗教も神も「信じるか?信じないか?」の二択にしかならないのである。

つまり「死人に口なし」という性質を、フルに活かしている点で、宗教とは最強の理論である。

そして、この性質は良くも悪くも「神が見ているから…」という理由で、時に治世のため、時に民衆の道徳教育のため、時に洗脳のために、権力者の都合の良いように使われてきた。

どういうことかと言うと「神が見ているから」という意識を民衆に植え付けられるので、集団監視と同様の効果を与えることができる上、「罪悪感」や「恥」という真理も生み出せるように、実に上手く機能してしまうのだ。

そして、それは「現世で神が見ている→死んでからその効果が発揮される→よって生きているうちに真実かどうか実証しようがない」という性質のため、信じている者が多い限りはノーリスクで機能してしまう。

また、信者が多ければ多いほど集団心理も働き、異教徒も排除できるため、副次的に監視者・傍観者・審判者を生み出すことも出来る。

しかし、近代化に伴い宗教による統治力が弱まり、今度は法律や国家権力、あるいはテクノロジーが宗教の代わりを担うようになってきた。

具体的かつ現代人でもわかりやすい例を挙げるなら「監視カメラで犯罪の防止」「法律による悪の定義、および警察・裁判官などの執行人の用意」「道徳教育によるモラル観の向上」など。

ただし、これらは残念ながら「人間が行う以上、不正や不平等が必ず生まれる」という欠陥を抱えている。

すると、今後の社会は「監視者・傍観者・審判者としての神」の立て替え役として「AI」が用いられることになる(という流れになっている)。

神は監視者として「一切判断を間違わないし、すべて見ている」と、多くの人間は信じているし、多くの宗教の教義でもそう書かれている。

「AI万能論=神」と信じて止まない人間は、神を信じている宗教教徒と同様の状態に陥ってしまうのである。

そこに気づけないから「最近の若者はあまりに神を知らなすぎる…」と、私はうんざりしているのである。

この場合、誰かが都合よく「神を殺している」のだと、疑う必要があるとわかってくるだろう。

何が言いたいのかと言うと「宗教なき現代の無神論国家において、神と同様の機能を持つ機関や技術には、常に疑いの目を向けなければならない」ということである。

それぐらい、神を殺してしまった代償は、あまりに大きかったのだ。

4.人類は昔から「神がいる」と知っていた

人類の歴史を見ると、我々人類は明らかに太古の昔から「神がいる」と知っていたことがわかる。

これについては、前述のエポケーによる「我々は神がいると知っている」を一旦忘れ去って、歴史的な「神の成り立ち」から考えていただきたい。

前述の「最後の審判」を例に考えてみよう。

「最後の審判」という概念はキリスト教やイスラム教に特有のものではなく、それより先発のゾロアスター教に既に存在している。

出典:最後の審判 – Wikipedia

この例から「ゾロアスター教がキリスト教・イスラム教に発展していったのでは?」という仮説が浮かび上がってくる。

最後の審判だけでなく、各種宗教を研究してみると、明らかに偶然の一致とは思えないほどに、引用や類似概念が散見されるのだ。

また、宗教だけでなく「民俗学」「伝承」「逸話」などを見ても、偶然の一致とは思えないほどに「ルーツ=パクリ」が見受けられる。

なので、すべての宗教はおそらくルーツは一緒だ。

この仮設については「現代に残っている文献や史跡から考証しなければ、学説として実証不可能」という点で、間違いなく今後も明確な根拠が提示されることはない。

なので、教科書に書いてあることしか信じていない教養人・知識人からすれば「すべての宗教のルーツは同じ」と主張する私は異端児でしかないだろう。

…その話は置いておく。

全宗教のルーツが同じとするのであれば、今度はより突き詰めて「では、宗教のルーツ自体は何なのか?」を考える必要がある。

  • 人間が失敗しないための知恵
  • 道徳・善悪を明文化するための方法
  • 共同体を維持するための共通ルール

要は「人間が生きるために必要な知恵や、先人たちの経験知すべて」とも言えるのである。

ただ、この方法で考えていった場合は「神という概念がどこで誕生したか?」という最古の歴史自体はわからない。

人類が知性を獲得した段階で「神という概念を直観していたか?」が特定できないし、そもそもが「神という概念を認知しだした」という原初の記録しか後世に伝わらないので、これについては永遠に謎のままであり続けるだろう。

(もちろん、古代遺跡などの文明を見れば「信仰する対象として”神”に近しい概念」が人間の本能にあったことは明らかではあるが…)

哲学的な歴史で考えれば「主観と客観」においての「客観」が、原初の神に当たる部分であると思う。

哲学の歴史でも未だに「客観」の存在証明は出来ておらず、理論上「哲学的ゾンビ」が成り立ってしまう時点で、他人の意識の実在を論理で証明するのは困難である。(もちろん、現実的な感覚としては完全に背理である)

わかりやすく言えば「自分の意識外(=主観外)で動くすべてのコトが”神の仕業”」だと定義すれば、その後の学問が生まれてきた経緯もすべて説明できる。

もっと突き詰めて言えば「知識=神」「同じ知識を信じている相手がいる=同じ神を信じている」とも言える。

言語にしても「同じ言語として通じると信じる相手がいるから、コミュニケーション手段として成り立つ=同じ神を信じている」とも言える。

そう考えると、人類の発展の歴史は「神の仕業を奪うこと」と共にあったとも言えるし、ある意味では「神という曖昧な存在から自立していく過程こそが、人類の歴史」とも言えるだろう。

5.神は死なない、何度でも蘇る

哲学史・宗教史のターニングポイントとなるのが、かのフリードリヒ・ニーチェの「神は死んだ」だ。

確かにあの著書は明確にキリスト教を論破してしまった。

理論上、確かに「神は死ぬ」と証明してしまったのである。

これは非常に由々しき事態で、本当に色々とヤバかったのである。

ニーチェの本があれだけ読みにくい・わかりにくいにも関わらず、後世に残っているのも、すべての常識をニヒリズムに突き落とすあの破壊性がヤバすぎるからだ。

しかし、現実は理論や論理で破壊できるほど、甘くはない。

論理や理論では、なかなか人々の頭から神を葬り去れないのである。

(よって、哲学はやはり「負け続ける学問」と言える)

神は何度も机上論で殺されては、再び机上論で蘇り続けている。

それはなぜか?

人々の心の中に「神=大いなる第三の存在」が、確かに存在しているからである。

これは冒頭にもお伝えした「現象学の本質直観」で「実感として存在しているとわかっている概念は、どれだけ論理で否定しても無駄」と、後に論破…というよりは「君の理論は正しいけど、実感としては全然違うでしょ」と指摘されてしまうのである。

(これは本当に哲学史全体で見ないとわかりにくいので「哲学的ゾンビ」を読んで「この理論を信じられますか?」と聞いて、多くの人が「NO」と答える状態を理解していただければ話がわかりやすいかと思う)

これは別に「神」だけではなく、神=宗教の代わりに現れた「社会主義」「共産主義」「民主主義」「資本主義」にも同じことが言える。

(前述の通り「神の仕業を奪うこと」が、新しい社会学や経済学につながっている事情を考えて欲しい)

歴史的に見ると、宗教は分裂して争い(イスラムのシーア派VSムンナ派、キリスト教のカトリックVSプロテスタント)、社会主義・共産主義が資本主義に敗北し、グローバリズムとナショナリズムは波のように繰り返している。

そのような歴史の波や繰り返しを顧みて、ひとつだけ言えることは「人類の歴史とは、破壊と再生の繰り返しである」ということだ。

人が失敗して学んで強くなったり、傷ついて優しくなれるように、人類全体の歴史も過ちは多けれど、確実に一歩ずつ進んでいるのだ。

同時に、人類全体の上に立つ「神」という存在も、時代状況によって都合よく殺されては、また必要とされて蘇るという、大変な役回りを演じ続けているのだ。

6.現実には「神の代弁者」が存在する

現実には「神の代弁者=預言者」が、しばしば現れる。

誰とは言わないが、現代の日本でもうさんくさいペテン預言者が現れた事例は、しばしばある。

その手の預言者の特徴は決まっていて「神が私に告げた」などと芝居がかって演技し、自分の思想を「神がこうおっしゃっている」などと言って、他人に信じ込ませるのだ。

それが良いか悪いかは「勝手に信じろい!」としか言えない。

とくに日本人は「宗教の自由」が保障されている。

ただ、しかと覚えておきたいのは、神の代弁者が現れた時は間違いなく時代の転機であるということだ。

預言者が預言者足り得るのは「何かが起こるから」ではなく「何かを起こすから」だ。

預言を当てる方法とはカンタンで「有言実行」してしまえばいいだけなのである。

もちろん、預言者が自分で直接関与しなければ、それは傍から見れば「事前に言い当てた」としか思えなくなる。

この場合、気をつけておきたいのは「預言者の目的」である。

歴史的に見て布教に貢献した人物もいれば、明らかに煽動のために神を冒涜した輩もいる。

もっとわかりやすく言っておくと、経典を理解できないバカ向けに預言者が言葉巧みに語るだけなので、識字率ほぼ100%の日本人には関係ない話だろう。

神や宗教に興味があるなら、原典を読めばいいだけである。

他人に宗教を薦めるのであれば、原典だけを黙って渡せばいいのである。

ちなみに何度も言うが、当サイトは神サイトだが、私は預言者でも神の代弁者でもない点は十分留意しておいて欲しい。私は自分の中の宗教を他人に押し付ける気はまったくない。

7.過去の知識人は「神の核心」に迫っていた

私の生涯はおそらく「神の核心」を突き詰めることに費やされる予感がある。

というのも、過去の知識人は得てして「神の核心」に迫っていたからだ。

たとえば、近代の学問では「神の核心」を以下のように結論づけている。(すべて独自の見解であり、論理の飛躍である点には注意)

  • アカシックレコード(全時間軸・全存在の記憶)
  • アインシュタインの「相対性理論」(4次元=神へ到達するための理論)
  • ニーチェの「永劫回帰」(あまりに人間的な…)
  • ユングの「集合無意識」(神を認識する機能)
  • マズロー欲求段階説のさらに上の「自己超越」(自己実現を越えし者)
  • アドラーの「共同体感覚」(敵を作り続けて、すべてを味方に変えし者)

思考に思考を重ねると「神の核心」が見え始めてくるのだが、どうにも先人には、私と同じ結論に至っていた人物が多くいるらしく、ようやく私は仲間と出会えたのだ。

もちろん途中で挫折してしまい、神の核心に近づけなかった学者や知識人も多いことや、実践や再現などはさらに多大な時間と労力を要することからも、その難しさがわかるだろう。

しかし、私たちは前時代の知識や教養を持ってして「神なる次元」に到達しなければならないのだ。

これは、自己啓発でも宗教でもスピリチュアルでもオカルトでもない。

ただの事実だ。

学問をしっかりと学べば、誰もがこの結論に行き着くはずだ。

先述の通り、歴史的な学問の成り立ちから見ても「神の仕業を奪うこと=新しい仕事」「神という曖昧な存在から自立していくことこそ人類の成長の歴史」なのだから、これは比喩でも過剰表現でもなく、紛れもなく「ただの事実」だとわかると思う。

もし、読者が大卒かつ文系卒で私と同じ結論に行き着いていないなら、それは残念ながら勉強不足であり、社会と歴史を知らない証拠だ。

そういう意味で、やはり私は「時代の先を行き過ぎてしまった」のかもしれない。

「変化が大事」「イノベーションが大事」などという時代になったが、どの会社も経営者も私レベルの「神なる次元への到達」というビジョンがないので、どうにも私はワクワクしてこないのである。

以下の一文をスコシテン教義に加えておこう。

「真なるイノベーションとは、神の領域に到達することでしか、達成できない」

これが出来ていたのは、せいぜいスティーブ・ジョブズとGoogleぐらいだろう。

だが、アップルも結局は無知で蒙昧な信者と卑しい拝金資本家どもの手に堕ち、スティーブ・ジョブズの目指したビジョンを今は誰も見ていない。

Googleも登場当初は「これが!アカシックレコードか!人類の集合知か!」とワクワクしたが、今や拝金どもによってクソ情報が垂れ流されるだけの、排水管並のインフラに成り下がった。(今の私の仕事は、そのクソに塗れた排水管を清掃することだ)

しかし、歴史とは「神の破壊と創生の繰り返し」とは、前述したとおりだ。

順当に考えれば「どうしたらイノベーションを起こせるか?」ではなく「どうすれば神の領域に近づけるか?」と考えなければならない。

そうすれば、イノベーションなど勝手に起こるのである。

「意識を高く持て」とは言うが、自意識を突き抜けて集合無意識を支配し、さらなる次元の意識を持たなければ、まるで話にならない

私ぐらいの意識を持って初めて「意識が高い」と言われて然るべきなのである。

神は極めて合理的な存在である

  • 神は「どうしようもない」と思った瞬間に、都合よく現れる
  • 神は「与える存在」である(ただし本気で信じている者に対してのみ)
  • 神は「監視者」「傍観者」「審判者」である(我々は見られている)
  • 人類は「神はいる」と昔から知っている
  • 神は死んでも何度も蘇る
  • 現実には「神の代弁者」が存在する
  • 過去の知識人は「神の核心」に迫っていた

以上のように考えていくと、神は極めて合理的な存在である。

何が合理的か?

人間が自分の力でどうしようもないことや、理解できないことに出くわすと「神」という概念を都合よく持ち出すことが可能な点で、極めて合理的なのある。

人が困難・挫折・理不尽な出来事などに出くわした際に、手っ取り早く「神」という存在が、すべての問題を解決してしまう

なぜなら、神を信じる者はすべてを「神の与えた試練だ」と納得できるし、それが本当かどうかは「死後の世界」まで先送りでき、永遠に実証不可能だからだ。

よって、信じるものは信じる限りは、救われるのである。(死人に口なし)

こう考えると、宗教の仕組みを考えた奴は天才もいいとこだろう。

日本における神の分裂

しかし、歴史的に見ても宗教は分裂するのが常であり、他宗教・無宗教という信仰無法地帯の日本などは、八百万の神の概念があるほど、神は分裂病患者だ。

ここでもう一度エポケー段階で明るみとなった「我々は、生まれながらに”神がいる”と知っている」という前提を思い出して欲しい。

この性質により、どんな無神論者も生まれながらにして「神なる存在がいる」と知覚してしまっており、神の存在を否定できない…あるいは説明できない以上は「いるかもしれない」と考えてしまう。

これが何を意味するかと言うと、今の日本では実質的に「神という存在が持つ合理性や機能性」が分裂・多様化してしまっているのだが、その危険性に気づいていない人があまりに多すぎるということだ。

たとえば、審判者としては「司法」が機能し、あるいは監視者としては「AI」「監視カメラ」と言ったテクノロジー、あるいは「監査」「税務署」などの公的機関が、神の役割を持つことになる。

このように、現代においても、神は死んだと思われているようで、多くの「神の代弁者」が潜んでいるのだ。

その兆候は今も変わらないどころか、ますます酷くなる一方だ。

神風が吹くことを信じて特攻し、お客様は神様となり、ネット上に神が現れまくり、神の名のもとに対立構図が展開され、宗教上の違いから聖戦やテロが起こり、人は何度でも同じ過ちを繰り返す。

私は合理性を追求する上で「神とは何か?」という輪郭を突き止めたが、残念ながらそれは実証不可能であり、論理体系を整えて言語化してしまえば「宗教」にしかならず、それは歴史が証明しているように誤解しか生まない。

ただひとつ確実に言えることは「神とは都合よく扱える極めて合理的な存在であり、対民衆用の間接的な殺人兵器」として、歴史上有効に使われ続けたいう事実だ。

神は分裂してしまい、多様化・複雑化した今の日本では「本来、神が担うべき機能や合理性を用いている連中」が、たくさん潜んでいる。

そして、最近の若者は「神とは何か?」を私ほど真剣に考えてないので、神を信じていない割には、都合よく「神と同じ機能を持つシステム」や「神の代弁者」を信じてしまう。

信じる者は救われない。
正直者はバカを見る。
期待は裏切られる。
死んでも報われない。

そんな殺伐とした現代社会を生きるためには「神とは何か?」を知り、己自身の宗教を自分の心の中に作り出すことにある。

そして、さらに実践としては「神なる次元を目指すこと」も大事になってくる。

歴史的に見ても「神の仕業を奪うこと」自体がイノベーション(革命・技術革新)につながっているのだから、これは発想の飛躍でも何でもなく、ただ純然たる事実としか思っていない。

そこまで考えが及んでいない経営者やクリエイターなどは、私からすれば思考力も想像力もお勉強も足りていないな」と、大いに己の無知さと想像力の無さを懺悔して欲しい。

こういった事情を踏まえれば、スコシテンが「神サイト」を自称せざるを得なくなった事情は、おわかりいただけるであろう。

神と等しい力を適切に扱え、他人に分け与えられるのは、この世でもっとも神の核心に近づいているであろう、私だけなのである。

また、自意識を突き抜けてメタ思考へと飛躍し、集合無意識を支配して、真なる「意識の高さ」を獲得しているのも、現状では私ぐらいだろう。

もっとも、日本には八百万の神がいると信じられているので、あと7,999,999の神の席が空いているので、これはあまりにもやさしすぎる世界だ。

そう考えると、私は自分をとくに傲慢だとは思わないし、唯一神を名乗ってない時点で謙虚な方なので、問題はない。

望むのであれば、誰もが神になれる時代なのだ。

ぜひ、あなたもスコシテンを読んで、神の領域に一歩近づいて欲しい。

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