「才能とは何か?」という問いに答えが出ているのに誰も認めたがらない件について

「才能とは何か?」

この命題(テーマ)に対して、ちまたでは「継続することが大事」だとか「努力を努力と思わない」などと論じられていますが、私は「お前ら全員、バカじゃねえの?」とツッコみたくて仕方ありません。

それはなぜか?

「才能とは何か?」について、以下のように答えが自明だからです。

結果を出して世間的に評価された才能があった。おめでとうございます。ようこそ、選ばれし者の世界へ。
結果を出せず、世間的にも評価されなかった才能ないね。残念。今後のご健勝をお祈りしております。

つまりは「結果論」です。

これは「宝くじが本当に当たるかどうか?」を論じているぐらい、非常にバカげてます。

答えが出ているので、ぶっちゃけここで記事を終えて「いかががでしたか?あなたも”才能”なんて実態のない言葉に惑わされず、結果を出す努力をしましょう!」とかテキトーに書いてもいいんですが、それではクソの役にも立ちませんよね。

ここで役に立つのが「答えが自明な問いをあえて追求する」という性質を持つ「哲学」です。

哲学の「使い方」に関する記事 -私が私を見つめてました-

「哲学とは何か?」をわかりやすく解説!哲学ってどうやって使えばいいの?

哲学を勉強すれば「才能とは何か?」は、自ずと見えてきます。

正直、私のもっとも嫌いな言葉は「努力」「才能」の2つなのですが、いい加減うんざりしてきたので、この機会に書き記しておきたいと思います。

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素直に言えよ「自分には才能があると思いたい」って…

そもそもで言えば「才能とは何か?」を知りたがっている人間、総じて「自分には才能があると思い込みたい」だけの人間です。

そのクセして「もし自分に才能がなかったらどうしよう…」だとか「結果を出しているあの人みたいにはなれないない…」と、根本的なところで自信がありません。

ですが、それは当たり前です。

「才能がある」と認められる結果を出していないのですから。

結果が出る前に「自分に才能があるかどうか?」なんて、判断しようがありません。

(少なからず、他人はそういう目であなたを判断します)

スコシテンの教義では「結果は結果として表面化して、初めて結果として認識される」と説かれておりますが、これを言い換えると「才能は才能として表面化して、初めて才能として評価される」と言い換えられます。

もっとわかりやすく言うのであれば「天才科学者はノーベル賞を受賞して、初めてその才能が世間的に評価される」と言えば、バカでもわかるはずでしょう。

…が、自意識過剰で自分のことしか考えられない精神が未熟な若いうちは、そういうところにまで意識が及びません。(それ自体は誰にでもあることなので仕方ない)

で、そういう人が自分を慰めるために行う方法と言えば「自分には才能があるんだ!」と確信が持てるような「成功者の言葉」「診断結果」を求め、自分の都合のいいように解釈することです。

だったら、いくらでも言ってやりましょう。

「読者のあなたには、誰よりも自分がやりたいことを実現できる、圧倒的な才能があります!あなたには無限の可能性があります!」

で、あなたは何かその才能を開花させるために、努力してきましたか?
具体的な目標はありますか?
その「自分の中に眠る才能」とやらを信じて生きてきて、何か変わりましたか?

…もし、仮にすべて「NO」であるのであれば、才能うんぬん以前の問題です。

どんなに磨けば光るダイヤの原石も、磨かれなけば「ただの石ころ」ですから。

こういうことを書くと「嫌味なやつ」だとか「感じ悪い」だとか思われるんでしょうが、頭お花畑の「信じれば夢を叶う!」なんて若者に夢を抱かせ、挫折させて知らぬ顔しているクソどもよりは、私は幾分マシなクソ野郎だとは思いますよ。

そういった「本当は自分に才能がないことなんかわかりきっているのに、才能があると信じないとやっていけない…」と思っている方は、以下の記事などを参考にしてみてください。

ちなみに、もしあなたが「自分には才能がある!」と思いたいのであれば、以下の記事を読んで「根拠のない自信」を履歴書に詰め込んでみてください。

これを読めば根拠のない自信を持てる!

「根拠のない自信」を持つための超合理的な考え方を紹介する

「本当に才能があるかどうか?」なんて「やってみなければわからない」のですから。

そういう意味では「自分には才能がある!」と信じて、猪突猛進にツッコんでいくバカのほうが、才能があるかどうかで悩んで行動しない大バカよりは、ずっとマシです。

選ばれし子どもたち ~早すぎた仮想世界デジタルワールド

マーケティングの最強手法とは「あなたは選ばれた存在です」とプレミアム感を煽ることです。

たとえば、私などは中学二年生の時に「人間失格」を読んで、冒頭の「恥の多い生涯を送ってきました」という一文を読んで、頭の中で何かが弾ける感覚を味わいましたよ。

ありていに言えば「この作品の良さがわかるなんて、なんてオレは特別な存在なんだろう!!」とゾクゾクしました。

しかし、フタを開けてみれば、自分と同じような人間はうじゃうじゃ存在して、まったく特別な存在ではありません。誰もわざわざそんなこと口にしないだけで。

(常識的に考えれば、長い時間を経て、古典として残っており、今なお商業用の書籍として流通している時点で「大衆的」なのですから)

何が言いたいのというと、すべての文章・創作物、あるいは広告にはそういった「あなたは選ばれた存在だ」と思わせる強い魔力が込められていて、現代人の心に容赦なく介入してくるということです。

もちろん、それは表面上は「自分だけがその良さがわかる!」と思いがちですが、実際は「大衆に向けて発信されている」わけですので、実際はあなただけが特別なわけではありません。

これはたとえば、就活生がリクナビで「自分は就職先選び放題だ!」と錯覚してしまうのも同じ心理効果があり、実際は「企業側が選ぶ」事実を無視して「自分が選ぶ」と思い込んでしまう人も大勢います。

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…まあ、以上のような文章は「仕事で自分が選ばれた存在になりたい!」と思っている人に、ノータイムで「もしかして、この文章と出会えたのは運命!?」と思わせるぐらいに、自分のためだと思い込んでしまうように計算して書かれております。

ですので、仮にあなたが誰かに「才能があるよ!」だとか「君は選ばれた存在だ」と言われたら、冷静に疑ってじっくり考えてみることも大事です。それはだいたい、他の人にも同じこと言ってることがほとんどなので。

まるでチャラいモテ男が、女と二人っきりになった瞬間に「姫」だとか、ほざきだすみてェだな。

「人殺しの才能」がある、あの人達からこそ学ぼう!

「才能はなにか?」を考える時、致命的な問題として「自分が知っている分野や仕事」での才能しか選択肢として考えられないという点に、気づかない人は多いです。

どういうことか言うと「自分が知っている仕事や分野でしか、才能を判断できない」という、自分の視野の狭さに気づけないという状態に陥るのです。

「才能がある」ともてはやされる分野や仕事ですと「芸能」「スポーツ」「医者・学者」「クリエイター」など、だいたいが「子供の頃の夢」になるものばかりです。

そうなると、そういう仕事は「才能のある仕事」だと思われる一方で、そうでない仕事は「才能がなくても出来る仕事」と、ステレオタイプな偏見でしか職業観を育めないという問題を今の日本は抱えております。

その結果「才能の必要とされる仕事=特別」「才能の必要とされない仕事=平凡」と、狭い二択でしか物事を考えられなくなるのです。

別に私は「お前ら全員、才能があると思うなよ」と言いたいのではなく、むしろ「誰もが自分の才能を発揮できる社会になって欲しい」と思って、このブログを運営しております。

ですが、そのためには多くの若者や、転職を考える方に「才能とは何か?」を的確に把握してもらう必要があると感じているので、こうして長ったらしく利益にもならん文章を書き続けているのです。

そのためには「自分には才能がある」という根拠のない自信(自意識過剰)は、一度捨て去る必要が出てきます。

客観的に、自分が知らない分野や仕事に対しての才能がある場合、それを自分では自覚できないという認識上の問題を、認識できなくなるからです。

極端な例え話をしましょう。

仮にあなたに「人殺しの才能」があったとします。

これは倫理的にもアウトですし、日本では軍隊もないので、誰もが「自分には人殺しの才能がある」だなんて、考えもしません。あっても、まず活かせません。

ですので「ありえない前提」として、非常に展開しやすい例え話になります。

これはモデルケースが存在しないので、以下の歴史や創作物の例で考えることが出来ます。

人殺しの才能がある、あの人達の例

アドルフ・ヒトラー…本当は画家になりたかったのに、挫折。死地を求めて戦場に送り出されて、覚醒。その後の活躍は言わずもがな。後世の有識者は「ヒトラーがいなくても、あの時代状況だと誰かが同じことやってた」と語る。才能がある人は、本人の意志と関係なく、時代から選ばれてしまうものだ。

アムロ・レイ(ガンダム)…ただの機械オタクが、たまたまガンダムに乗り込んでしまって、ワケのわからんニュータイプとして覚醒。もっとも軍人に向かない技術者気質の人間が、皮肉にもエースパイロットとして撃墜王になってしまう。

衛宮切嗣(Fate/zero)…世界を救うヒーローになりたかったのに、人殺しの才能があり、バンバン魔術師を殺していった。恩師を撃つ時もとくに躊躇いがなかったほどの天才。ちなみに弟子からは「本当はそんなことしたくなかったんでしょ?」とバレバレだった。

平賀・キートン・太一(マスターキートン)…考古学の教授・研究が本業なのにイマイチ経歴は冴えず、社会的評価も伴わない。自分の空想癖に嫌気が差して軍隊に入隊したら、不本意ながらもSASのスペリャリストとなり、その時の経歴を活かして保険調査員を勤めている(本業よりも儲かっている)。

ジョン・リース(パーソン・オブ・インタレスト)…元CIA工作員。人殺しの天才であり、交渉力も半端ない。しかし、CIAから見捨てられ、本来死ぬべき場所で生き延びてしまう。また、プライベートでは元恋人よりも仕事を選んだ自分に負い目を感じ、その元恋人がDV夫と結婚して死んだことで、人生に失望してホームレスに。そこに大富豪のAI開発者から仕事(=使命)を与えられ、ダークヒーローとして「他人を救うために自分の能力を使う」という天職に出会うところから、この物語は始まる。

このような例や話を見ると「本人が望む・望まないに関係なく、自分の才能に運命を支配されている」という感覚を覚えます。

何が言いたいのかというと、残念ながら世の中では「自分のやりたいこと」と「自分が才能を活かせるフィールド」はだいたい一致しないということです。悲しいことに。

恋愛で言えば「本当は振り向いて欲しい人には一切相手してもらえず、どうでもいい相手からはモテる」という、あの現象です。

それを世間では「才能がある」などと言い、時に嫉妬の対象にすらなります。

この前提を踏まえておかなければ「自分のやりたいこと=才能があると思い込みたい」という先入観・思い込みからは、いつまで経っても抜け出せません。

私が「嫌いなことを仕事にしろ」だとか「やりたいことや夢を仕事にすんな」と主張しているのは、思い込みをぶち壊して、より自由に読者に職業選択をして欲しいからです。

何が言いたいのかというと「明らかに自分がやりたくないことなのに、その分野において突出した才能がある」という人の場合、大きく自分の適性や才能、そしてキャリアを見誤ることになるのです。

ちなみに、私も今の仕事(ブログ運営)なんか大嫌いです。

書きたくもないクソ記事のほうが利益になって、本当に書きたいことの方は見向きもされないので。

自分が死んだ後に開花する「才能」もある

「才能が結果論」という前提で踏まえれば、そもそもが「生きているうちに評価されない才能」も存在することを知っておかなければいけません。

私が好きな作家である故・山田花子氏の作品なんかも、あからさまに「自殺したことで、作品自体が神格化され、過大評価されている」わけなので、生き方そのものが作品価値を高めてしまっています。(作品自体は発展途上の凡作、商業誌としては駄作という評価)

関連:「生きることなんてどうせくだらない」故・山田花子の鋭すぎる作品を読み解く

このことから考えればわかりますが「作品制作者の人格や生き様」「時間軸」という概念が、才能(仕事や作品)の評価に大きく影響を与えてしまうのです。

どういうことかというと「才能とは、今この瞬間だけの評価ではない」のです。

たとえば、突如現れた大型新人が、経歴を詐称するのなんて常套手段であり、そういう才能のあるスターが「幼い頃からずっとこの道を目指していた」だとか「オーディションで何回も落ちたが、チャンスを与えられた」だとか「単身上京して、下積み時代に大物プロデューサーからスカウトされた」だとか、そういう”いかにも”なシナリオをプロデューサーや芸能事務所から与えられるのは、割と誰もが知る常識でもあります。

あるいは、歴史上の人物などは後世の逸話で好き勝手神格化されてしまうのが常で、現代に残っているのは「あからさまに過大評価されている、才能ある超大物像」でしかなく、都合よく歴史は塗り替えられております。

…つまり、結果論的には「過去の才能自体も歪んでしまう」ので、結果を出す前から「自分には才能があるのか?」なんて悩むのは、あまりにバカげているのです。

そして、仮にあなたに才能があって結果が出せたとしても、それはおそらく「自分が思っている才能」ではなく、別の形…しかも不本意な形で評価されるものと心得ておきましょう。

正当評価なんてしてくれる人間、そうそういません。

才能なんて”くだらない”

以下、今回の要点まとめ。

  • 「才能は結果論」でしかない
  • 才能という言葉は「自分に才能があると思い込みたい人間」が使っているだけ
  • 誰もが「選ばれし存在になりたい」という欲望を持つ
  • 自分自身の才能を自分で認めたくないケースもある(人殺しの才能など)
  • 自分が死んだ後に評価される才能もある(死後の念)

以上のように「才能なんて結果論」としか言えないので、際に才能があるかどうかなんて関係なく、好き勝手言われるだけのものでしかありません。

…まあ、おそらく「自分には才能がある!」と本当に信じたいおめでたい連中は、冒頭の文章で嫌悪感感じて離脱しているので、そういう人間は自分の信じたい都合のいい言葉だけ信じて、その結果痛い目を見続ければいいです。

私が本当に読んで欲しいと思っているのは「才能だとか努力だとか夢だとか、そういう言葉に惑わされて、どうすればいいのかわからない…」と真剣に悩んでいる読者です。

もっと言い換えれば「残酷な現実でも、直視したい」という覚悟のある方です。

私からは「才能なんて、どうあがいても結果論にしかならん」としか言えません。

ですので、もし「自分に才能があるかわからない…」と悩んでいる方は、恐れずに進んでください。

自分を信じて結果が出れば「才能があった」と言えますし、そうでなければ「才能がなかった」だけなのですから。

そして、その「才能」と呼ばれる概念は、勝手に他人が解釈して、本来の自分の実像からは歪められていきます。

…才能なんて概念は、しょせんは”その程度”のものでしかありません。

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