「生きることなんてどうせくだらない」故・山田花子の鋭すぎる作品を読み解く

何をやってもうまく行かない奴はいる。

「生きることなんてどうせくだらない」

そう言い残し、若干24歳で自殺してこの世を去った漫画家・山田花子(本名:高市由美)氏も、間違いなく「何をやっても上手く行かない人」の1人であっただろう。結果論的に見れば「自殺するために生まれてきた」と言えるぐらい、悲劇的な人生を送っている。

  • 小学時代より「いじめ」にあう
  • 「いじめ」に耐えきれず、高校中退
  • その後、漫画家デビュー「ヤングマガジン」などで連載
  • しかし、漫画だけで生計を立てられず、バイトと掛け持ち生活
  • が、そのバイトでは要領が悪くすぐクビになる(今で言う「ADHD」の兆候が見られる)
  • 精神分裂病発症後、投身自殺。享年24歳

引用元:山田花子(漫画家)-Wikipedia

これだけ書けば「人生がうまく行かなかった人間」だとわかるだろう。

あらかじめ断っておくと、私は彼女の人生の同情する気もなければ、かと言って彼女の人生を見下して卑下するつもりもない。

正直に言えば、彼女のことなんて知らないし、死んでしまった人間に対しては好き勝手アレコレ言えるからだ。

つまり”どうでもいい”のだ。

マスコミが殺人事件が起こる度に「加害者の心理状態はこうだったに違いない~」などと、さも悲しい顔で正義漢ぶって語っているぐらいに、どうでもいい。

しかし「どうでもいい」からこそ、ドライかつ客観的に評価できるのだ。

今回は故・山田花子氏の作品の読み解きながら、大いなる人間の心の闇と、現代社会の息苦しさの原因について探っていく。

山田花子の作品は「劇薬」でしかない

あらかじめ言っておきたいが、興味半分で故・山田花子氏の作品は読むべきではない

なぜなら、彼女の作品はあまりに”劇薬”だからだ。

言葉とは、薬でもあり毒でもあり、呪いであって祝いでもある。

扱い方を知らなければ、無意識に飲み込まれてしまう。

そして、多くの人々が「言葉の使い方」を知らない。

ゆえに、無神経な一言に人は傷つき、お世辞や社交辞令に人は勘違いして舞い上がり、あるいはすれ違いから自殺・殺人につながることすらあるのだ。

そう。故・山田花子氏のように。

彼女の作品は「すべての言葉を毒と呪いに変えてしまう」という、非常に危うい性質を秘めている。

…と言っても、この記事を読んでしまった読者で、とくに好奇心旺盛、かつ”翳り”が好きな読者は読まずにはいられないだろう。

なので、私は彼女の作品に濃縮されている「圧倒的絶望感=虚空の闇」に飲み込まれないための、心構えを記しておきたい。

作者は「神の視点」に迫っていた

大げさに言えば、故・山田花子氏が「漫画という芸術」において目指していたところは「神の視点」の一言に尽きる。

「漫画家=神」を目指していたからこそ、あまりに俗物すぎる人間たちの欲望や矛盾に耐えきれず、自殺を選ばざるを得なかったのだ。

彼女が「神の視点」を獲得するために苦悩し続けた形跡こそが、彼女の作品の魅力のひとつだろう。

彼女が「神の視点」を目指していた根拠はひとつ。

読んでいくうちに、どこからが作者の原体験であり、どこからが作者が見てきた光景なのか、わからなくなるところだ。

通常、あらゆる作品には作者の「原体験」「コンプレックス」「欲求」と言ったものが現れる。もちろん、商業上の都合で「そういう風に意図的に演出している」こともあるが、どんな作品にも「作者(あるいは商業上)のエゴ」があるのだ。

しかし、故・山田花子氏の作品は驚くほどに「作者のエゴ」が巧妙に隠されている。

どこからが作者自身の心情や欲求であり、どこからが作者の”邪推”なのかがわからなくなる。

ここが、故・山田花子氏の作品の恐るべきところであり、劇薬でもある所以だ。

つまり、哲学的至上命題でもある「主観と客観」から抜け出すことに関し、現在の数ある商業漫画を差し置いてしまって、先を行ってしまっているのだ。

そして、自分の心情や視点を捨て去り、傍観者・観察者としてのみ君臨する存在は私たちはこう表現する。

―――”神”と。

故・山田花子氏が漫画で目指していたところは、娯楽や欲望などではない。文字通り「神」を目指していたからこそ、その苦悩に耐えきれず自死を選ぶ結果になったのだ。

そこにあるのは、ただただ「絶望」のみ

当然ながら「神の視点」を目指せば、そこにはただただ「絶望」しかない。

人間は一貫性から程遠く、欲望に際限がなく、卑しい生き物だからだ。

彼女はそんな事実を、幼い頃から嫌というほど目のあたりにしてきたのだろうと思う。

本来なら、多くの人間が受け流したり見過ごせるような事態も、その鋭すぎる感受性で貪欲に捉え続けてきたのではないだろうか。

先ほどから「神」「神の視点」と表現している概念を「完璧」「理想」と言った言葉に置き換えてみよう。

故・山田花子氏を生涯蝕み続けた”心の闇”の正体とは、おそらく「”ダメな自分”と”理想の自分”」のあまりに大きすぎるギャップにあったと思う。

これは心理学領分でも見られる傾向で、とくに職人気質・完璧主義傾向の強い日本人に関しては「森田神経質」と名付けられている症候だ。森田療法|Wikipedia

そして、彼女の作品からは「理想の自分=他人から否定されない自分」という理想像が浮かび上がってくるのだが、それに加えて彼女の恐るべき観察眼と感受性により「あらゆる否定の仕方を知っている=自分を否定することが容易→結果、あらゆる他人から否定されている風に捉えられる」という、がんじがらめの心理状態が生まれてしまっているわけだ。

つまり、決して届き得ない「理想の自分(他人から求められる自分)」を追い続けていたにも関わらず、その「他人から求められる自分」をも否定できてしまうがために、心の闇から抜け出せなかったのだと思う。

故・山田花子氏は、あまりに他人に優しすぎ、自分に厳しすぎたのだ。

彼女が見ていた”絶望”の正体は、他人からすれば理解しがたいものかもしれない。

しかし、私たちは彼女が見た”絶望”の正体を、知っておかなければならない。

なぜなら、絶望も知らない人間が、本当の希望を見出すことなど出来ないからだ。

故・山田花子氏が、最後の心の拠り所としてすがった「漫画=創作物」は、彼女が自らの命を紡いで遺した、遺言でもあり現代人への教訓や戒めでもある。

そのためには、彼女が生涯見続けてきたであろう「絶望」を想像しなければ行けないのだ。

それこそが、彼女の作品を読み解く意義である。

”弱さ”を受け入れられないことが彼女が追い詰めた

故・山田花子氏が自死に至るまでに世の中に絶望し続けたのは、自分の”弱さ”を受け入れられなかったことにあると思う。

いや、自分の”弱さ”あるいは”ダメな自分”は誰よりも理解していたとは思う。それは痛々しいほどに作品内のに濃縮されている。

では、一体何が彼女を追い詰めたのだろうか?

彼女の作品には「エゴ」が見当たらないと言ったが、そこにヒントがある。

作品がただただ絶望的であるにも関わらず、そこには本人の願望も悲鳴も一切見当たらない。

彼女が諦観して絶望し「神の視点」を目指したのも、そこにあったと思う。

「助けて」「かまって」などという人間らしい”弱さ”が、彼女の作品には見受けられないのだ。

生前、故・山田花子氏は対人恐怖症で過度に他人の視点を恐れていたと言う。

それが作品中にも現れている。

前にもお伝えした通り「どの人物が作者の代弁者で、どの描写が作者のエゴなのか?」がまるで想像もできないのだ。

つまり「自分を知ってもらいたい=自分の弱さもさらけだしたい」という欲求を一切否定し、ただただ「傍観者=神の視点」であろうとしているのだ。

「自分」という存在を徹底的なまでに「群衆・大衆・現象」という抽象的存在に落とし込める力量は、あまりにも恐るべき才能だと言ってもいい。彼女は「作中でキャラクターを動かしている」のではなく「作中のキャラクターに”自分”という存在を紛れ込ませる」ことに、挑戦し続けていたのだ。

そして、それこそが彼女を自殺にまで追い込んだ”絶望の正体”であることも、戒めとして知っておいて欲しい。

故・山田花子氏の作品の本質はこうだ。

欲望も理想もすべて切り離し”自己(エゴ)”を大衆化させようと挑戦し続けた。

ここまで言えば、勘のいい読者はお気づきかと思うが、この心理は作家だけでなく、今の現代人にも普遍的に見られる傾向である。

個性を捨て組織に忠実な社員となる。
自分の感情や欲求を捨て、顧客に受ける商品を作るだけのマシーンとなる。

こうした、自己の存在を組織や大衆に還元しようとする試みは、得てして”絶望”しか生み出さない。

山田花子が「漫画家」であり続ける理由

ここからは、故・山田花子氏を「歴史上の人物」の1人として考えていきたい。

「死人に口なし」と言う通り、死んでしまった人物は「残った人々の心の中で生き続ける」しかないからだ。それも、時間が経つに連れ「実際の人物像とは程遠くなっていく」という性質を持つ。俗っぽく言えば「思い出は美化される」ってヤツだ。

これはおそらく、故・山田花子氏がもっとも嫌う行為だろう。

彼女が冥土で筆をとっているのであれば「死んだ人間にアレコレ好き勝手言って、自分の言いたいことを言っている嫌なヤツ」など揶揄されているに違いない。

でも、だからこそ、私はアレコレ言って彼女が生きたことに意味を持たせたいのである。

それこそが、私たちが死者を供養する、本当の意味だからだ。

商業漫画としては”駄作”の一言に尽きる

故・山田花子氏の漫画家としての評価はお世辞にも”高い”とは言えない。

ハッキリ言うと、故・山田花子氏の作品は商業誌における「漫画」においては、駄作以下だと言ってもいいだろう。

なぜなら、読んでいて「共感やカタルシス」もなく、かと言って作者が作為的に作り上げた「読了後の胸糞悪さ」すらないからだ。皮肉・社会風刺としても、まったくおもしろおかしさもない。

つまり、読んでいて「メッセージ性」も「ストーリー性」もないのだ。

人によっては「ただただ不快な作品」としか感じないだろう。

だが、そこに故・山田花子氏の作品を読み解くヒントがある。

日常の「嫌なこと」を切り抜いた作者の観察眼

故・山田花子氏は「漫画としては体を為していない」からこその、表現力がある。

商業誌というのはどうしても「正解=読者に好まれる」という営利上の都合がまとわりつく。

多くのクリエイターが悩む「”読者に求められるもの”と”自分が描きたいもの”のギャップ」もここから生まれる。

しかし、故・山田花子氏はそれを理解できていなかったどころか、別軸で極端にブレている傾向があるように思う。

先にも説明した通り「読者=大衆の求めるものために、自己(エゴ)を大衆に同化させる」という方向性に暴走してしまったのだ。

元来、通常の作家やクリエイター、あるいは社会人(生産者)は「自身の作りたいものと他者が求めているもの」でバランスをとっていくのが定石だ。

しかし、故・山田花子氏はバランスをとるのではなく「”他者が求めているもの”だけを漫画に描こうとした」のである。

その結果、他者の求める自分であり続けようとしたにも関わらず、上手く行かない自分や言動のコロコロ変わる他人に流される自分の姿が、鋭すぎるほどに漫画内に散りばめられている。

冒頭にも述べた通り、言葉とは薬でもあり毒でもある

故・山田花子氏には何気ない日常会話でも、その多くが「自分を追い詰めるための呪いの言葉」にしか聞こえなかったであろう。その具体例が、彼女の作品内に詰め込まれているのである。

その刹那的な瞬間を「コマ」の濃縮させる彼女のセンスは、圧巻の一言だ。

「漫画」の表現技法を勤勉に極めた”技術者”としての姿

故・山田花子氏は、非常に勤勉で真面目な性格であったと思う。

それは漫画の中の試行錯誤で見て取れる。

私はあまり漫画の表現技法には詳しくないが、それでも「努力や苦悩の跡」「試行錯誤の痕跡」が見受けられるのだ。

たとえば「タイポグラフィ」の視点だけで見てみても、様々な工夫が見受けられる。

キャッチフレーズにしても独自のセンスを持っていたことも伺える。

「王道を学ぶ勤勉さ」「センス」「オリジナリティ」に関して言えば、間違いなく成長し続けていた気鋭の作家であったのだ。

ただ、こういった「作家の苦悩や試行錯誤の痕跡」というものは、完成品を享受しているだけの消費者には到底理解し得ない。

そのため、無責任に「ぱくり」「センスがない」「個性がない」「つまらない」などと言われることも、ままある。そして悲しいことに悲観的で絶望的な彼女は、自分の努力や才能を讃える声よりも、無責任な大衆の罵詈雑言の方が気になってしょうがなかったのだろう。

山田花子は真の「アイドル」であったのではないか?

すさまじい暴論だが、私は山田花子は当時の周りの編集者など、仕事で関わる人間からすれば「アイドルの卵」であったのではないかと推察している。

「アイドル」とは比喩表現だが、作家の「スター性」「タレント(才能)性」という性質を鑑みて、あえて「アイドル」と表現する。

「アイドルとは何か?」は非常に深い哲学的命題だが、私がこの本質に迫っていると感じる台詞がある。

うん、でも…
私にはアイドルに見えた

アイカツ!77話「目指してるスター☆彡」より

「アイカツ!」の星宮いちごが次世代のアイドル大空あかりを選出したシーンの一言だ。

要は「放っておけない」「目が離させない」というわけなのだが、それこそが「アイドルの素質」だと、星宮いちご(という視点から語るアイカツの製作者たち)は確信に迫っているのだ。

何をやっても上手く行かないやつはいる。
いや、何をやっても上手くいかない人ばっかりなのだ。

「アイカツ!」における大空あかりも、そんな「何をやっても上手く行かない人物」として初期の頃は露骨なまでに「転びまくる人生」を歩んでいた。

故・山田花子氏は、卑屈かつ疑り深い性格ゆえ、自分も「選ばれた存在」である事実に、気づけなかったのだろう。

そもそも、本当に故・山田花子氏の作品が取るに足らない駄作であれば、ヤングマガジンからマイナー誌に移行させるなんて配慮などなく、容赦なく切り捨てられていたはずだからだ。

にも関わらず、商業誌に載せるにはあまりに卑屈で絶望的な作品でも、当時の編集者は彼女に連載のチャンスを与え続けた。

それが「なぜか?」は推察・妄想の域だし、当事者たちでなければわからない。

おまけに相手は精神病から異常をきたし自殺するという、最悪の形で他界している。

たとえ本音であっても「彼女は才能がなかった」「彼女には期待していなかった」などと言えるわけもない。よって、結果論的建前として「惜しい人物を無くした」と言わざるを得ないのだ。

そういった事情を鑑みた上で考えてみても、私は彼女が決して「何をやっても上手く行かない人間」「売れない漫画家」であったとは思わない。むしろ、将来世を圧巻する作家になっていた鋭すぎる才能も秘めていたように思えるし、あるいは一部のマイノリティに厚い支持を得るようなニッチな作家になっていたのかもしれない。

それは、当時の彼女の才能を見込んでチャンスを与えていた人物も、きっとそう考えていたと思う。

いや、そうであったと私は信じたい。
でなければ、あまりに悲しすぎるからだ。

その証拠に、今でも電子書籍として発行されるほどに彼女の作品は大事にされているし、Wikipediaの記述などは「売れない漫画家」のものとは思えないほど、熱が込められている。

感受性や想像力のある方ならこう考えるだろう。

「彼女が今も生きていたのであれば、どのような作品を描いていたのだろう?」

それが”希望”であり”期待”であり、そして”人は成長していく”という事実の証左でもある。

故・山田花子氏は人生に絶望しきっていたかもしれないし、自分にまったく自信もなかったと思う。作品に反映されている通り「世の中のすべてが”私を追い込む悪”」に見えていたに違いない。

だけど、本当はそうじゃなかったはず。

現に今も彼女の作品は一部の人間に愛されており、これから作品を読んだ人が「彼女が今も生きていたなら…」と考えるはずだろう。

彼女のすごさとその裏に潜む苦悩は、皮肉にも彼女が自殺という最悪の末路を選んだことで、世間に知れ渡る結果になったのである。

作者の自殺を持って、作品は完成した

故・山田花子氏の作品を語るにあたって、作者自身の自殺が作品を伝説化してしまっている事実も、念頭に置いておくべき事実だ。

商業上の都合と大衆心理を持ってすれば「作者の死を持って作品が伝説化する」というのは、珍しくもない現象だ。これを「他人の死に群がるハイエナ」と思うのも「追悼の意」と思うのも、それぞれの自由だ。

他人の死などしょせんは「他人事」でしかない。

葬式で悲しむのはせいぜい本人生前関係があった人間だけで、他人は「悲しむフリ」「追悼の意を表明」だの、自由に喪を服する権利があるのだ。

故・山田花子氏の鋭い観察眼を持ってすれば、そんなものは「私の死を利用して…」と映るだろう。

つまり「若くして自殺してしまった、女性作家の漫画作品」として、故・山田花子氏の作品を読んでいる私なども、彼女の眼からすれば「私の作品に本当は興味もないくせして”自殺した人の作品だから”という理由だけで読んでいる、卑しい俗物」として映っているのではないだろうか。

だが、私はそれでいいと思う。

ある意味、彼女の人間に対する絶望感を濃縮した作品は、自殺なくして完結できない面もあるからだ。

彼女が今も生きているのであれば「めんどくさい不器用な女の書いたメンヘラ漫画」で一蹴できるかもしれないが、彼女の人生史を知っておくことで初めて「彼女が生涯味わってきた絶望感」が見え始めてくるのである。

つまり、故・山田花子氏の作品は「生きた作家の作品」ではなく「自殺してしまった作家の作品」として読むことで、初めて意味を持つのだ。

それは、紛れもなく「古典」だと言える。

彼女については「生まれてくるのが早すぎた」という声もあるが、たしかに現代人の苦悩をあまりに先取りしすぎたきらいはある。

早すぎた現代人の苦悩と絶望を濃縮した”古典”として読み解くことこそ、故・山田花子氏の作品を読む上で大事なことなのだ。

あまりに優しすぎた作家

最後に、私は故・山田花子氏が残した作品を”希望”につなげたいと思う。

それこそが、供養だと思うからだ。

彼女の作品を読む中で、唯一本人のエゴや欲求が出ている箇所が他ならぬ「やさしさ」だ。

そう、彼女はあまりにやさしすぎたのだ。

良くも悪くも、人の”やさしさ”が、彼女を自死にまで追い込んだのだ。

作品のどの部分から「作者のやさしさ」を感じ取るかは、読者に委ねたい。非常に繊細で悲観的な作品ゆえに、作者の”やさしさ”を感じ取るのは並大抵の感性では厳しいかと思う。

彼女が絶望を乗り越え今も生き続けていれば、1人の女性として「優しすぎる作品」を描き続けていたのかもしれない未来を思うと、あまりに悲劇だ。

だが、死んでしまった人の「もし生きていれば…」を嘆いてしまっても仕方のないことだ。

先人が遺したものを、次世代につなげることこそが、今生きる我々の役目だ。

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